同胞意識が芽生えた話

小説に載っているレシピで料理を作ってみたのですが、どうしても上手くいきません。登場人物はあんなに美味しそうに作っているのになぁ。と思いながらも再挑戦。「うーん、なんかこれじゃない感」どうしても作品通りの味にはならないのです。描写は「とろとろしてて、ふわふわ。口の中へ入れるとツルンとしてとても美味」らしいのですが、どう頑張って感じてみても、なんだか「ザラザラしている」としかならずにがっかりしてしまいます。
作り方や材料も同じようにしているのになァ。と思いながらも首をひねっていました。すると、ある時、小説を元にした料理本が出版され、早速買ってみました。その通りクッキングすると、本当にキャラクターの感想とそのまんまのものが出来上がって大喜びしました。なるほど、混ぜるのが足りなかったんだ。と、反省しました。読み落としていたのです。
どうしても、近い気持ちになりたくって、板前さんの物語とかを読むと、作ってしまうのです。そして、その世界観に浸ってしまいます。「変な趣味かも!?」と思っていたのですが、先日、動画サイトを巡っていると、同じことをしている方がいて「やっぱり仲間がいた! やるよね!」と思い、勝手に同胞意識が芽生えました。

しっとり楽しく一人旅

この前、ちょっとした一泊二日の小旅行に行きました。日頃の疲れを癒やそうと、選んだ場所はちょっと駅から離れた場所にあるこじんまりとした古風な旅館です。和風の美しい作りで、露天風呂付き。歴史は感じるけれど、手入れは行き届いていて、地元野菜を使ったお料理は心が込められて豪華でとっても美味しくて、量が多かったのにビックリして「こんな食べられない!」と声をあげていましたが、ペロリと平らげてしまうほどでした。
遅めの夕食を終わらせ、いそいそと向かう先は貸し切りの温泉です。効能をチェックし、持参の読み物を片手に、いざ。湯に浸かりながら本を読もうと思ったら、三十分が限界でした。熱めの温度にクラクラに。それに紙が湯気でへにょへにょになってしまいます。「やっぱりダメだったか」と苦笑し、身体を拭いて、着物に着替え、冷たいお水をぐいっと呑んで、今度は足湯に。リラクゼーションチェアがあり、そこに半分横になる感覚での読書タイム。
気付いた時には最後まで読破していて、周囲に人気はなくひっそりとしていました。手元の灯りを絞ると、星がとても綺麗に輝いています。無音の世界に一人でぽつんとしています。「ああ、なんか、いいなぁ」とやっぱり海外よりも国内のしっとりした旅が私には会うみたいです。

オンリーラブのブックがあれば

子供の時からずっと読書が好きですが、ここまで変わらずに「自分のベストがこれ! もう、これ! この一冊しかない」というものは無いな、という気がしています。もちろん、色褪せない名作は沢山あるのですが、自分の中で「生涯かけてオンリーラブ」的なものは無いように思います。年齢とともに絶えず嗜好は変化していくのです。止めようがなく、どんどん新しいものを吸収し、その時々で好みが違います。それは、寂しいことのようにも思いますが、読む力の成長の過程なのかも、と考えたりもするわけなのです。「不変的なものなんてないんだ!」といった感じに。
ずっとそう思ってきたので、Sさん(仮名)との出会いは衝撃的でした。彼女は物心ついた時からずっとこれまで一つの物語を愛し続けてきたらしいのです。それはある童話のような海外のお話なのですが、年をとる度に発見があり、此の先も永遠にそれが不動の地位にあると宣言しています。なんたる自信なのでしょうか。しかし、かれこれ二十年以上そうなのですから、信ぴょう性はあります。なんだかとても羨ましい気もします。
移ろい行く私の感性と、彼女の対比をしていくとキリがないけれど、そういう物があってもいいな、という気がします。

年寄りじみていく・・・

一週間のうちの何日かは、自分のやるべき家事を手早く終わらせてから、駅前のスーパーに夕飯の材料を買いに行きます。ちょっと時間がある時は、ふらふらっと必ず立ち寄ってしまう店があります。それは、昔からある小さな書店で、入口そばの椅子にちょこんと座って、レジ番をしている老人がいるところで、なにもかもが古めかしく、それでいて、なんだか子供時代を思い出すような、古い記憶を辿るような、とっても落ち着く空間です。店内には何時も、お客さんが一人いるかいないかで、先日は、そこに並べてある書棚の横にあるものを発見しました。
昭和40年代頃のぬりえです。それも雑然と置かれているのです。もちろん未使用ですが、かなり劣化しています。古き良き昔のイラストは今とは全く違います。最近のアニメや漫画がいかに近代的かを実感します。ですが、可愛いのです。その頃にはその時の味があり、なんとも言えず良いのです。
現代の子供はぬり絵で遊ぶのかなぁ、と、ふと考えました。ゲームやいろんな娯楽があるからどうでしょう。色鉛筆やクーピー、クレヨンを持って机に座り一心不乱に色をつける姿というのは顕在なのでしょうか。友人で、絵を描くのが好きな人がいて、パソコンでSAIというソフトを使っています。ペンタブレットというものがあり、それで色を塗ったりしています。もしかしたら、現代の子は紙にではなく、コンピューターにペイントソフトを使って遊んでいるのかしら、と思うとなんとなく寂しい気持ちになりました。

本当は「山かけ」が食べたかった

落語を聞いた帰りに、立ち食い蕎麦が食べたくなりました。ちょうどその手のお店にはベテランの男性と一緒にいたので、連れて行ってもらうことに。一人で入るにはなかなかの勇気を要しますし、女性同士ではなんだか気が引けます。メニューは壁にかけてある木札で決めます。
「どうしようかな~」なんて悩む暇はございません! とでもいうように、店員さんがすかさず「何になさいますか?」と聞いてきます。「月見」と隣の彼。いつ決めたんだ!? と、私も焦って同じものをお願いします。と、次の瞬間には注文したものが私の目の前に! 早い。あっという間に出てきます。ふーっと息を吹きかけながら口に含みます。「う、美味しい!」空腹で外が寒いせいもありましたが、立って食べるそれは、かなりのお味です。こんなに手軽なのに、なぜでしょう。周囲を見回すと、サラリーマンだらけ。異性ばかりです。それらが一心不乱に、まるで取り憑かれたかのようにズズズッと吸いこんでいます。「ごちそうさま」と、同伴者。はやすぎる! 私も慌てて掻っ込みます。
よく、歴史小説を読むと、江戸の町人が「二八そば」を食べている描写があります。今日の寄席でも、「時ソバ」という演目を楽しみました。縄文時代から栽培されてきて、私達の生活に根付いている食べ物でもあり、私の好物。帰って調べてみると、最初は麺状ではなく、餅の形態だったのだとか。ううん、奥深いです。その歴史を調べたくなりました。

古風な自分がなんとなく好き

私の父方と母方、両方の祖母の本棚を見ると、その読書量にいつも驚かされます。そして、負けてはいられないぞ、という気になります。どちらもかなりの書痴です。元々、そういう家系で育ったからか、私も異様なぐらいに本の虫なのかもしれません。一緒に住んでいないので、たまに遊びに行くと第一声は「最近、なにか面白いの読んだ?」で始まります。
話は変わりますが、この前、20世紀からの全世界の歴史をドキュメンタリーとして放送していたテレビ番組を観たのですが、そこで、ラジオが普及しだした頃のアメリカの様子というのが映り、その大衆の熱狂ぶりに驚きました。今で言う「スマホ現象」のもっと苛烈したバージョンみたいなものでしょうか。一日中ラジオにかじり付き、自分の娘が井戸に落ちても聴くことに熱中しすぎて、三日間気付かなかったらしいのです。外に出れば「何か新しい事聞いた?」が会話のあいさつだったと紹介していました。「夏草や兵どもが夢の跡」と言った風に、今は大衆を魅了したそれもテレビの陰に隠れている感じがします。
時代は変わっても、古くからあるものを未だに好きでいる自分がちょっと好きだな、となんとなく感じました。世間の波に流されず、熱狂的に何かに夢中になれるというのは本当に好きなものであるに違いないのです。新しいものに興味を示すのは人間の習性かもしれませんが、古を偲ぶ美学を私は世界に訴えていきたいな、と夢のような事を思っています

大海原を生きている

「この時代が戦前と呼ばれないように」ある女性作家さんの言葉が私の胸の中ではじけます。戦争関連の読み物は辛く悲しく目を背けたくなりがちです。しかし、ぐっとこらえて今まで読んできました。ちょっとタブーのように扱われがちな気もしますし、私のような若輩の世間知らずが語る事はおこがましく、そんな事は出来ないのですが、自分の中で「こういう風に生きよう」と思う指標を探すつもりで目を通しています。
戦争小説といえば有名なものがたくさんあります。エンターテイメント色の強い荻原浩著の「僕たちの戦争」、浅田次郎「終わらざる夏」、大岡昇平の「野火」、井伏鱒二の「黒い雨」その他、さまざまな目線や視点から取り上げられているものが出版されています。
最近、遠藤周作の「海と毒薬」に目を通したのですが、膜を張ったような切なさを感じました。山本健吉が評論をしていて、それを読んで感じたのは、人生は川のように一本調子で同じ向きに流れていくものではなく、往ったり来たりしながらやがては霧散する海のようなものかもしれないなというものです。穏やかな流れに乗って生きられたらいいけれど、嵐は来るし、波は荒れる時もあります。
なんとなく、人間社会の情勢も自然の摂理の中のひとつなのかもしれないな、と感じる今日この頃です。もしもこの先、何が起こったとしても自分という個を無くさずに生きていきたいと思うのです。たとえ、小さな波の飛沫だとしても。

昼間っから一杯ひっかける夢

たまに、とてつもなく酒が飲みたくなる小説に巡り合います。今回読んだ原田マハ著の「風のマジム」もそのうちの一つでした。実話をもとに描いたサクセスストーリーなのですが、上質なラムを飲みたくなります。この元になった話というのも大変面白いので、ぜひ興味を持った方はネットで検索してもらいたいです。
アルコールは大好きですが、いかんせん弱いのがちょっぴり悔しいです。そして、どうしてもこういう話をすると、杉浦日向子さんの事を思い浮かべます。若くして亡くなられた江戸風俗研究家であり、漫画家さんである方なのですが、私は彼女のエッセイを好んでいて、特に酒に関するものがたまらなく好きなのです。
とても粋な方でした。文章も絵も味わい深く、若いのに、かなりのダンディズムを感じさせます。現代に生きながらも江戸っ子の風をふかせていて、今をもってもしても憧れています。私も彼女のようにスノップを感じさせない人柄で、一人で昼下がりの蕎麦屋で一杯ひっかけられるような女性になれる事を夢見ているのです。遺作に「百日紅」というとても有名な浮世絵師である葛飾北斎と彼の周囲に居る人々を独特なタッチで描いた漫画があるのですが、これも面白く、江戸時代好きにはたまらないですし、時代ものが苦手な方にも面白く読める内容になっています。

流星のような今は亡き若い天才を追う

この前、山口県を旅行した時に、長門市に立ち寄ったのでその流れで「金子みすゞ記念館」に行きました。本館と金子文英堂の再現、休憩室となかなか広く、見どころが沢山ありました。平日にも関わらず、若い方も年配の方もたくさん来場されていたのでファンが多いのでしょう。彼女の詩は震災の時によく耳にしました。「こだまでしょうか いいえ、誰でも」の作者です。私は詩には滅法疎くて、吉野弘の「夕焼け」、竹内浩三の「骨のうたう」、中原中也や萩原朔太郎の作品には感銘を受けた事があるのですが、それ以外はあまり知りませんでした。
まず、その生涯に同じ女として「寂しさ」を強く感じました。若くして亡くなった女性の複雑さを目の当たりにし、たじろぎました。人の一生を憶測する事はとても難しい事で、私のような若輩者には立ち入れない領域です。猛烈な切なさだけを抱えて、この館を後にしました。それから少し経ち、本を購入しました。
そこには優しい世界がひろがっていました。彼女の遺したものを一文字ずつゆっくりと味わいました。そして気がついたのです。それこそが、彼女と繋がる唯一の手段で、私の感じた「切なさ」の癒しなのだという事を。
遺した言葉には瑞々しい生命を感じました。小説とは少し違う、詩というものが発する命の鼓動を確かに感じたのです。

私だけではなかったことへの喜び

よく妄想をします。例えば、道を歩いているときに、前から強盗犯が駆けてくるのです。私は腰の脇から徐に日本刀を取り出し、すれ違いざまに峰打ちで仕留めます。追っていた警察官がのびた盗人にお縄を掛けながら、喜色を浮かべ、「かたじけない。いや、しかし、見事なお手前でござった。そなたの名前をお聞かせ願えるか」と、感極まった声で言うのです。拙者は懐手で「なぁに、名乗るほどのモンじゃございやせん。ただのしがない浪人でさァ」と答え、静かにそこを去ります。
この話をすると「病気だよ、本の読みすぎだよ」と友達は眉を顰めますが、こちらからすると、どうして生活の端々でそういう楽しみ方をしないのかがとっても不思議です。
思えば、ずっとそうでした。味気ない日常をこのようにして乗り越えてきました。現実世界でドラマは滅多に起こりませんから、想像するしかないのです。あんまり深く入りしすぎると、境目が分からなくなるので、適度なところで切り上げるのが肝心です。
ずっと孤独でした。そういう話をできる人がいないのです。「くだらない」と一笑されてそこで終わってしまいます。しかし、先日、ある作家さんのエッセイにこんな内容の事が書かれていました。「職場に悪の軍団がやってきて、自分が華麗に退治する妄想を出版社に勤めている時によくしていた」と。仲間がいました!
私は藁にもすがる思いで、仲良くなりたくて、ファンレターを送りましたが、返事は返ってきませんでしたので、この寂しさをやっぱり妄想で補っています。

自分の中のイメージを形にできる、読み手にも書き手にも人気の高い夢小説はいかが?